カルマの法則を理解していくと、気になるのは「もっとも罪になる行為とは何か?」というテーマです。
僕なりにカルマの法則を理解していった末、いたった結論からお伝えすると
『人の自由意志を奪い、かつ、相手を悪い方へと追い立てること』
がもっとも罪になると思います。
今回の記事では、なぜ、これらが大きな罪となり得るのかについてお伝えしていきます。
また、罪になることが分かれば、逆に、良い行為とは何か?なども観えてくるでしょう。
人の自由意志を奪う行為が悪いカルマになる理由
なぜ、それが悪い行為と言えるのかというと、相手の選択肢(成長機会)を奪ってしまうからです。
すると、奪った選択肢の数だけ自身の選択肢が奪われる結果になります。
(人間はそもそも自由から生じる幸福を求める性質があるがゆえに、それは悪い行為と定義しても良いと考えています)
具体例を挙げると、親が子供に対して「医者になりなさい」と命令し、子供の言い分を聞かずに否応なく勉強させたとします。
そして、実際に子供は医者になりました。
ただ、子供は納得のいかないまま親に強制されて物事を進めていったがゆえに、医者になる道以外の世界に対する理解ができておらず、人生全体としての学びが出来ていない状態です。
この場合、精神年齢としては非常に幼いままであり、医者になる道を経る過程で出来た現在の価値観は固く硬直している状態です。(これが本質的な意味で自由意志を奪われた状態です)
次に、親に対してはどのような影響が返ってくるかについてお伝えいたします。
相手の自由意志を奪った事で返ってくる影響(カルマ)とは
上記の例を用いると、親は子供の価値観を硬直させたのと同様に、より一層、自身の価値観が硬直していきます。
そして、自身は絶対に正しいと思い込む独善的な性質(自我)が増し、その自我は分厚くなり解消されづらくなるでしょう。
さらに、子供の思いを観ようとしない行為によって出来た、他者の気持ちに鈍感な自我はより一層、自身を孤独にしてしまうでしょう。
おそらく、「自身の私利私欲を子供で満たそうとした親」が見舞われる人格の歪みの大きさを、多くの人は観てきているように思います。
というのも、現状、これは法律上では裁かれにくいけども大きな罪になる行為だからです。
ただ、実は、この例はかなり極端であり、誰しも相手の自由意志による選択を奪う行為をしているのが実際だと思います。
その全てが大罪になっているわけではないでしょう。
人間は過ちから学んでいく事が、カルマの法則において考慮されている
「良かれと思い、相手の選択を待たずに、自身の選択を押し付けてしまった」
などの事は、誰しもあると思います。
これらの事を少しもしていないのであれば、その人はすでに完全な知性を備えた存在だと思います。
しかし、僕達、人間のような不完全性を備えた存在に「完全な行動をしろ」と言うほうが無理であり、道理に適っていません。
カルマの法則は道理を判断基準としているので、もちろん、出来るだけ相手のためを考えた行為(道理に適った行為)をしようとした末に、誤ってしまったのであれば大きな罪にはならないでしょう。
従って、この場合、価値観(自我)の極端な硬直などのことには見舞われにくいのが事実だと思います。
大きな罪になる場合は、明らかに相手からの主張・相手の思いを察する事ができるようなサインがあったのに、それを踏みつぶして自身の主張を通して、言う事を聴かせ続けた場合だと思います。
このように「相手の自由意志を奪い、悪い方に追い立てることがカルマの法則上良くない」とお伝えしてきましたが、では、そこから分かるカルマの法則上、良い行為とは何でしょうか?
相手の自由意志を尊重しつつ良い方向へと導く
基本的に、人には良心というものがあり、その良心はカルマの法則を基準にしています。
そのため、相手のためを思った行動をしようとすると、「相手の自由意志を尊重しつつ良い方向へと導く」という形になりやすいでしょう。
それで、こうした良い行為をしようと思った時に大切なのは
- 相手の選択を認め、かつ、失敗する権利も認める
- 相手から意見を求められた時などに良い判断(自由意志による論理的な判断)がしやすくなる材料を与える
などのことだと思います。
それで、人に何かアドバイスをした場合に、それが自由意志を奪うかどうかの分かれ目になるのは、アドバイスの内容が因果関係まで理解できるような論理的なものか?によると思います。
例えば、「人前では笑顔でいた方が良いよ。そうすると幸せがやってくるよ」と言うとします。
この言葉だけでは、そのアドバイスを受け入れる人は笑顔と幸せとの因果関係を理解するための材料を得られないでしょう。
そのままアドバイスを受け入れたとしても、それは盲信の域をでません。
(ただ、これは多くの場合、発言者は私利私欲ではなく、相手のためを思っている部分が多いですので、仮に盲信になってもあまり罪になることは無いでしょう)
その一方、「私の場合では、人前では笑顔でいた方が良いと思う。人から自分の心は観えないから、険しい顔をしているとそれだけで人は”自分の事が嫌いなのかな”と思ってしまう。それってお互いにとって不幸な事だよね。
だから、笑顔でいる方がお互いにとって幸せになれると思う」
といった形で言えば、相手は、その論理を元にして、やった方が良いかどうかを自身の自由意志で判断することができます。
すなわち、相手の自由意志を尊重したということになるでしょう。
ただ、人生で人々が直面する状況は千差万別であり、その時に応じて何が良いかどうかも変わります。
しかし、「真剣に相手のためを考える」ということ自体が正解であり、これができている内は、何も罪になることはないし、その行為は世界のためになっていると思います。
ちなみに、以下の記事では、そもそも自由意志とは何なのか?について書いております。
もし、自由意志について分かりづらければ、ご参考になれば幸いです。
三堀貴浩さんのお話がとても聞きたかったんです。
このページに出逢えて、ああ凄いな素晴らしいなと嬉しかったです。
人間って弱いです。こういうお話を読んで自分をピュアに保ってないと、気が付けばやりたい放題とは言いませんが、余計な事や自分自慢や思いやりのない言動をとってしまいます。
有り難うございました。
コメントを頂き本当にありがとうございます。
こちらこそ、ご覧頂けて光栄です。
仰る通り、僕達、人間は弱いところが一杯あると思います。
ただ、その弱さ、例えば、自慢や思いやりの言動をとってしまった経験なども、いつかは人に優しくできるような強さに変わるのだと思います。
また、それらの弱さによる経験は、世界をより深く理解するための材料になるのかもしれませんね。
コメント主様のような「心をピュアに保とうとする意識」があるだけで、あらゆる過去の失敗を未来に活かせるようになっていくものと思います。