カルマの法則における「自身の精神成長と共に、社会から悪が無くなっていく原理」についてお伝えいたします。
人間は社会悪を見つけると、それを叩くことで潰そうとする傾向があります。
しかし、実際の所、叩くことでは社会悪は根本的に消えることはありません。
なぜなら、悪を憎む思い自体が少し検討違いであるからです。
この記事では、社会悪が生まれる根本の原理・社会悪を無くすための方法についてお伝えいたします。
悪(不幸)が生まれる根本の原理
結論からお伝えすると、悪が生まれるのは悪行を行う人・悪行により被害を受ける人、両方にカルマの一致があるからです。
前世において誰かを奴隷扱いした人は、潜在的自我において「傲慢さ」「他者の気持ちに対する鈍感さ」などが形成されています。
すると、その潜在的自我を解消するために、今世においては誰かから奴隷扱いされる必要が生じます。
すなわち、これは、自身の事を奴隷扱いするであろう人をこの世に生むということになります。
上部の動画では、悪口を例にしてこの原理をお伝えしています。
Aさんが悪口を言う→悪口を言われるであろう要素がAさんの自我に加わる→BさんがAさんの悪口を言う
という流れがありますが、Aさんが誰かの悪口を言わなければ、BさんはAさんに悪口を言わずに済みました。
そのため、Bさんの悪行の責任はAさんにもあるという事になるでしょう。
この原理を知ると、悪が消えていく原理が観えてくるように思います。
自身が精神成長することにより、人が悪を行わなくて済むよう未然に防ぐ
悪口を例にするなら、自身は悪口を言わないようにします。
すると、自身の事を悪く言う運命上(カルマ上の接点)にあった人が、自身の悪口を言わずに済むようになってくるでしょう。
さらに言うならば、自身の無知を自発的に克服する事で、自身に無知を教えるための悪人を減らすことができます。
例えば、自身が欲や怠け心に溺れて詐欺まがいの投資話に乗ってしまった場合、その悪人は、自身に無知を教えるためにも出現しています。
実際の所、欲や怠け心が無いゆえに道理を理解できていたなら、その投資話がウソであるのが見抜ける上に、さらには出会うことすらも無かったでしょう。
また、運命上、自身に悪行を行うはずだったカルマ上の接点がある人の進歩を間接的に促すこともできます。
悪行する人が改心する根本の原理
例えば、運命上、善子さんに悪行を行う見込みのあった悪子さんがいます。
しかし、善子さんが精神成長することで悪子さんは善子さんに悪行を行わずに済みました。
すると、わずかですが、「悪子さんの自我にあった、悪行を生む性質」が変わるべく、何らかの気づきを与えるための出来事が起こります。
そこで気付くかどうかは本人の自由意志による問題であり、また、悪子さんとカルマ上の接点のある人は他にも何万とおりますので、善子さんの変化による影響はわずかです。しかし、確実に、善子さんの精神成長の分の影響は悪子さんに及びます。
改心の余地の無い悪人であっても、その人とカルマ上の接点のある人物の多くが精神成長を遂げていくと、自然と改心へと向えるようになっているでしょう。
カルマの法則は人間同士のカルマとの兼ね合いにより様々な出来事を引き起こしています。
それゆえに、自身の精神成長により、他の誰かや社会の誰かの心にある悪い部分は消えていくでしょう。
重要な部分ですので、他の具体的な例でさらにお伝えいたします。
「劣等感が現実に具現化する原理」の背景にあるカルマの一致
例えば、学歴が無いことに劣等感を持つ人がいます。
すると、学歴が無いことで蔑まれたり、学歴のある人から傲慢な態度を取られたりなどの事が起こりやすくなります。
これは
- 学歴で劣等感を持つAさん
- 学歴で傲慢な態度を取るBさん
両者とも《学歴に囚われている》という点で共通しており、カルマの一致が起こっています。
これは多くの場合、学歴が高いけども傲慢なBさんの所業をみる事で「学歴は人間の本質的な立派さ・貢献度とは無関係なんだな」という事をAさんが知るまでの道のりになっています。
しかし、仮にAさんが精神的欠点を克服したり、他者のために尽くすなりをする中で、精神成長を遂げていった場合、学歴に対する囚われが無くなります。
すなわち、学歴に対して全く劣等感を感じなくなった場合、BさんはAさんに傲慢な態度を取らずに済みました。
また、そもそも、実際に出会うことすらも無くなるでしょう。
そして、何らかの形で、Bさんの学歴への囚われを解消するためのヒントが得られる機会がやってきます。
個人間のこうしたカルマの一致が無数に折り重なり、社会全体が形成されています。
そのため、権力者ほど傲慢な人が多いのであれば、その傲慢さにより何かを学ばなきゃいけない要素が大部分の人達に存在する事実もあると考えています。
ちなみに、被害者側の人の精神成長により加害者側に良い影響がいく原理についてお伝えしてきましたが、その逆もあります。
悪行を思いとどまる事で誰かが救われる
例えば、悪子さんが善子さんへの悪行を思いとどまると、善子さんの精神的欠点を克服するための流れが間接的に起こります。それは非常に微細なものに感じられますが、その実、悪子さんが善子さんに対して悪行する以上に、善子さんの進歩にとって良いものです。
具体例を出しますと、子供の片づけができない部分を「なんでちゃんと片付けができないの!」と感情的に叱っていた母親がいます。
しかし、その母親が感情的に叱らなくなった場合、その子供が持つ《片付けができないことに関連する精神的欠点》を解消するための流れが起こります。
これは感情を自制できた母親に良いアイデアが浮かぶ事であったり、子供自身に何らかの気づきを引き起こすための事であったり、様々です。
ただ、母親にも精神的欠点があり、「几帳面すぎること」「自身のこだわりのために人を利用してしまう」などが欠点であれば、そもそも、片付けができない子供を許しつづける事がカルマ解消の流れになっています。
この場合では、片付けができない子供を片付けさせるための知恵はあまりやってこないでしょう。
しかし、それでも、母親が子供への感情的な叱責という形の悪行(自身の感情を人に押し付けたという意味での悪行)を自制した場合、母親の精神的欠点の克服と共に、必ず、子供の精神的欠点も改善されるようになっています。
はじめまして。たかひろさんの事はYouTubeで知りました。いつも色々勉強させて頂いております。ありがとうございます。また5ちゃんねるのスレッドも読ませて頂き、その流れで『魂の法則』を知り読みました。全てが真実かは分かりませんが面白かったですし、疑問に感じる事もありました。
YouTubeの他のチャンネルなど、特にタロット占い系などで「ライトワーカー」「スターシード」と言う言葉を良く耳にしますがたかひろさんは「ライトワーカー」「スターシード」についてどう思われますか?これらの使命がある人、ない人など魂により違いはあるのでしょうか?
あるサイトで魂のレベル(輪廻転生の回数での魂の覚醒度合いの事だと思います。)についての説明を見た事があります。自己実現のステージ(この段階にいる魂が1番多いとの事でした。なのでスピリチュアルもこの段階向けに「引き寄せの法則=願望実現」と言った商売が多いそうです。)そして次のステージは貢献のステージ(こちらのステージは少数だそうです。)貢献のステージは我欲のない利他的な奉仕の精神(愛)の事だと思います。
そして「スターシード」や「ライトワーカー」は本来この段階にいる人々なのでしょうか?
「スターシード」や「ライトワーカー」で自分の特殊能力を職業としている人ばかりで無償でその能力を他者に用いる人は見た事がありません。ですが金額の開きはかなりありますが有料で人助けをしている方、その方達により救われた人がいる事も事実ですし、勿論詐欺紛いの方もいるとも思います。『魂の法則』では特殊能力による商売はとても罪深いカルマとなると書かれておりました。勿論、本人の自由意識が1番優先されるべき事だと思いますので他人がその事に批判をするべきでは無いとも思います。
「スターシード」「ライトワーカー」の使命を持ち生まれたのに覚醒もせず(自分のハイヤーセルフ=自分の潜在意識とも繋がれない、本来持っている特殊能力も開花しない)、使命を果たす事もせず死んでいく魂もあるのでしょうか?
それともこの使命とかもスピリチュアルの新たな商売なのでしょうか?
私の様な凡人には使命と言う言葉の意味が魂の真実なのか商売ワードなのか分かりません。
私の様な者からするとたかひろさんは貢献のステージにいらっしゃる方で私にはたかひろさんみたいな方が真のライトワーカーなのではないかと思ったからです。そして残念な事に私の周りにはたかひろさんみたいな方はいないのでもしよければこの私の疑問にお答え頂ければ幸いです。
たかひろです。
動画をご覧頂き、また、ご質問を頂き本当にありがとうございます。
このご縁を頂けた事をとても光栄に思います。
>>「ライトワーカー」「スターシード」についてどう思われますか?これらの使命がある人、ない人など魂により違いはあるのでしょうか?
言葉によるラベルはさほど意味のある事では無く、魂に違いは無いと思います。
僕とご質問者様も同じであり、それぞれの立場において貢献を成しているのではないかと考えています。
例えば、事実として、僕はご質問者様の家族を助けられる立場にありませんし、ご質問者様も僕の家族を助けられる立場に無いと思います。
このように、それぞれの立場において助けられる人がいて、それらの人を助けられればその人は大きな使命を果たしていると捉えても良いかもしれません。
(ただ、助けるという概念をどの次元で捉えるかはその人の精神成長度合いなどにより違う部分がありますが、仮にそうであっても、ベストを尽くしていればその時点における最善だと思います)
ちなみに、僕の捉え方における使命とは『個性や立場を考慮した上で、自身にしか出来ないであろうこと』だと思います。
それで、道理(事実関係)に照らし合わせて考えた場合、ライトワーカーという概念(ラベル)に囚われることは、聴く人にとっても、名乗る側にとっても危険性が大きいかもしれません。
ライトワーカーと名乗るほどに「自身は光側の人間、自身と対立する思想を持つ人は闇の人間」という意識が強くなり、誰かを叩いたり、見下す行動を取ってしまいがちです。
また、自身の思想を理解してくれない家族などまでも”未熟な人間”として判断してしまう事にまで繋がり、結果として、自分だから助けられるはずの人を助けられない(使命を果たせない)ことにもなると思います。
『自身のやっている事が良いのかどうか』というチェックは長期に渡ってしていく事ですので、自身を光側の人間と断定することは非常にリスクが高いように思います。
また、その人の思想の影響を受ける人にとってもリスクが高いことでしょう。
とはいえ、上記は低い次元の道理に照らし合わせた場合の考え方だと思います。
(複雑かもしれませんが、僕の場合では、一つの事象を別々の次元の道理で考えるようにしています)
高い次元の道理に照らし合わせると『ライトワーカー 対 闇 』という構造自体は、それらを通じて、人類が大切なことを学ぶ過程でもあるゆえに、ライトワーカーと名乗る人を責めるのは間違いだとも思います。というのも、そのライトワーカーと関わる人達とのカルマの一致によって、この流れは生じていると考えているからです。
ライトワーカーという概念自体には否定的な僕からしても、ライトワーカーと名乗る人はその次元において人類の進化にとって必要な事を述べているのではないかと思うような部分があります。
例えば、日本人は全体としては抑圧傾向があり、ライトワーカーと名乗る人の中には、「自分の好きに生きて良い」というメッセージを伝えている人がいます。
これ自体は視聴者の何割かにとって必要なメッセージであり、精神的欠点を克服するにあたり方向性としては合っている部分もあるかもしれません。
僕自身の立場では、貢献・道理に基づく思考・精神的欠点の克服によって自我(カルマ)を解消するための方法をお伝えしているのですが、ライトワーカーと名乗る人の立場にも素晴らしい価値があるのは間違いないでしょう。
僕の思想において、ライトワーカーという概念に否定的である事と、ライトワーカーという存在の価値を認める部分が共存していることに困惑されるかもしれませんが、これは、「親友の性格に欠点があっても親友だ」という考え方と似ていると思います。
たかひろさんご返信ありがとうございました。
>>高い次元の道理に照らし合わせると『ライトワーカー 対 闇 』という構造自体は、それらを通じて、人類が大切なことを学ぶ過程でもある。
高い次元の道理なのですね。私は3次元に生き、3次元的思考しか出来ないため、やはり私には高次元の道理は理解出来ません。
私にはむしろ対立を煽っている様にしか見えませんでした。ご本人曰く5次元的思考の方は『ライトワーカー 対 闇の勢力(世界規模的)』発言が多かったです。
なので何故高次元的思考が出来るのにわざわざ世に対立を広げる発言をするのか不思議でした。私は世界の対立構造を煽る発言よりむしろ自分の課題(カルマ)解消=魂の成長、霊的進化に目を向ける様に諭す方が平和的で愛があるのだと思います。そしてこの手の人(ライトワーカー、目覚めているとか覚醒していると言う言葉を使う人達もいました。)は理論的な説明なく、自分が信じているからと他人に自分の意見を押し付け、見下す。あなたは3次元的思考だから5次的思考が理解出来ないから理解出来ないと人を見下す人が多かったです。正にたかひろさんが言われた
>>ライトワーカーと名乗るほどに「自身は光側の人間、自身と対立する思想を持つ人は闇の人間」という意識が強くなり、誰かを叩いたり、見下す行動を取ってしまいがちです。→私はこの思考自体が正に3次元的思考に思えます。誰かを叩いたり、人を見下す行動が5次元の思考からくるのなら5次元の思考とは一体何なのでしょうか?
私が思う真のライトワーカーとは相手を批判せず、霊的進化を出来る様に諭す事が出来る人の事だと思います。私がたかひろさんの事をライトワーカーと言ったのはこの考えがあっての事でライトワーカーと言う言葉がお気に障ったのでしたら申し訳ありませんでした。
本人が望むならその具体的な霊的アドバイスをする事やはり良いことだと私は思います。3次元的思考の者にはどれだけ自力で内観内省しても分からない事が多いですから。
たかひろさんの分かる範囲で良いのでもう一つ教えて下さい。
スピリチュアルペインと言う言葉をご存知でしょうか?WHOの定義にもあるのですが、スピリチュアルペイン(霊的苦悩)と精神的苦痛(心理的苦痛)の違いについてスピリチュアルペインの定義は分かりますが私にはスピリチュアルペイン=精神的苦痛=心理的苦痛も同じものに思うのです。何故、スピリチュアルペインが精神的苦痛=心理的苦痛と別枠なのかが理解出来ません。
たかひろさんが考えるスピリチュアルペインとはどういうもと思われますか?
お返事を頂ければ幸いです。
いえいえ、ライトワーカーという言葉が気に障ったという事はありませんので、お気になさらないでください。
もし、心配されてしまったのであれば、こちらこそ大変申し訳ございませんでした。
このテーマでお答えするにあたって、そもそも「ライトワーカー」という概念の孕む問題点について明らかにする必要があると感じたので、そのようにさせて頂きました。
ちなみに、『ライトワーカー 対 闇 』という構造により人類が学ぶ過程、について理解しがたいのはごもっともだと思います。
実際の所、ライトワーカーの方達の立ち振る舞いを観ていると、説の論理に根拠が無いのは事実なので、ご質問者様の感じ方は真っ当なものだと思います。
なお、これらのムーブメントから人類が学べるものは様々あると思うのですが、その一つとして代表的なのは、『権威に対する盲信を外し、理性を取り戻すきっかけ』という事があると思います。
実際の所、ライトワーカーと称する方達もかなり盲信的な部分は否めません。
ただ、世の中全体において権威への盲信は根強く残っており、ライトワーカーと称する人達の活動をきっかけに、民衆が権威を疑う気持ち(自律的思考)を持つきっかけになる一面もあるのでしょう。
真実を観ればもちろん、ライトワーカーの事を権威として捉えてしまえば、それも権威に対する盲信ですので、その人達の事を鵜呑みにするのも道理に反しているのは事実だと思います。
しかし、現在の民衆としては公平な道理を基に判断することが難しいのもまた事実であり、ライトワーカーの方達がつくる世界観である『ライトワーカー 対 闇 』といった分かりやすい構図を参考にするのでなければ権威に対する盲信を外すきっかけが掴めない一面もあるのでしょう。
そのため、現時点のライトワーカーと称する人達は誤っている部分も多いけれども、全体としては、現在の民衆に合う立ち振る舞いをしているのだと思います。
(もちろん、意図的にやっているわけではなく、自然とそうなっているのだと思います)
仮に、これでライトワーカーの人達があまりにも賢く高潔であった場合、それはそれで民衆はよりその人達を信仰してしまい、この『ライトワーカー(光) 対 闇 』といった精神世界の構造から抜け出すことができないので、人格において欠けている面が明らかになり、「本当に正しいことはなんなんだ….」と視聴者の自律的思考を育つ事自体は、カルマの法則(人類の進化)において理に適っている面があると考えています。
こうした流れがあるように思いますので、僕の場合では、ライトワーカーと称する人達がもたらす人類の進化の上での価値そのものは否定しない、というのが僕自身の考えです。
では、次のご質問にお答えさせて頂きますね。
>>たかひろさんが考えるスピリチュアルペインとはどういうものと思われますか?
今まで聴いた事のない言葉でしたので、調べて見ました。
教えて頂き本当にありがとうございます。
一般的にスピリチュアルペインは死生観に伴う苦痛(苦悩)の事を指すのですね。
その一方の心理的苦痛に対する一般的な解釈は、起こった出来事に対する辛い感情による苦痛(苦悩)なのですね。
今、考えてみた結果、僕自身の解釈では、スピリチュアルペインと心理的苦痛の違いは本質的に大きな差は無いと思います。
この両者の概念は「出来事に対する感情面での苦痛」という点で同じであり、その出来事の中身に対する区別を言葉の違いでつけているのだと思います。
例えば、空から降る氷の結晶は全てが雪であるのは違いないのに、水が多く混じっていればみぞれで、氷の結晶としてしっかり固まっていた場合は雪と言うのと似ていると思います。
この場合ですと、スピリチュアルペインは死が迫った時など「その苦痛の感情の原因になるような具体的な現象が無い場合」に感じる自責の念や虚しさなどを言うのかもしれません。(多くの場合、苦痛の原因が明らかにある場合は心理的苦痛と表現すると思います)
ちなみに、スピリチュアルペインという概念で少し心当たりのある事がありまして、僕自身のスピリチュアルペインの捉え方をお伝えさせて頂きますね。
僕の思うスピリチュアルペインは『魂(潜在的自我)が表面的自我に対して進歩を促そうとする場合に感じさせる苦痛』のことだと思います。
これの代表的なものは良心の痛みでしょう。
感情的な言葉をかけて人を傷つけてしまった場合に、「なぜ、あんなことをしてしまったのだろう」と罪悪感が生じるのは、スピリチュアルペインだと思います。
というのも、これは深い精神的な部分から生じる進歩のための痛みだからです。
他にも、死を前にして自責の念に駆られるのもスピリチュアルペインに該当するのではないかと思います。
ただ、言葉とはいつの場合でも不完全であり、「これはスピリチュアルペイン、これはそうではない」と出来事を、言葉によって明白に区別することはできない事は確かだと思います。
やはり僕のスピリチュアルペインの定義にしても、あれはどうかな?これはどうかな?と考えていくと、真実に相応しい線引きを言葉でするのは難しいという結論にいたりました。
たかひろさんご返信ありがとうございました。カルマの法則(人類の進化)は2020年に土の時代から風の時代へと変化した事が関係あるのですか?ネットでは風の時代は物質より精神性が重視される時代などと言われてますね。だからライトワーカー、スターシードの方々が啓蒙活動を始めたと言う事でだからたかひろさんはこれらのムーブメントは人類の進化に必要な物とお考えなのかなと私は推測しました。
今まで全くスピリチュアルとは縁のない生活でした。なので私自身は風の時代、ライトワーカー、スターシードなど全く知らない言葉でした。
スピリチュアルペインの解説ありがとうございます。たかひろさんの説明が1番分かり易かったです。自分で本などを読みスピリチュアルペインと心理的苦痛の違いが分かった様な気に一時的になってもやはりよく考えると同じではないかと思うループに嵌まっていました。私自体がスピリチュアルと言う言葉の概念自体をよく理解出来ていなかったからです。当時の私は心(顕在意識、潜在意識)=魂と思っていました。そして、自分で認知出来ない潜在意識について深く考えた事が無かったのです。魂=潜在意識にいる自我と考えるととても分かりやすいです。潜在意識だから普段自分では自覚出来ない。心=顕在意識で普段から自分が感じている意識と考えると理解しやすかった。
>>僕の思うスピリチュアルペインは『魂(潜在的自我)が表面的自我、に対して進歩を促そうとする場合に感じさせる苦痛』のことだと思います。
私はたかひろさんの言葉を自分の言葉に置き換えてやっと理解出来ました。
魂(潜在的自我)=潜在意識、表面的自我=人格=顕在意識
そして良心の痛み=スピリチュアルペインは衝撃を受けました。そしてこの例えはとても分かり易かったです。ありがとうございます。
ここの質問コーナーは“この世から悪が消えていくカルマの原理”と言うテーマの質問コーナーだったんですね。
色々な記事を再度読み、質問しようか迷いながら質問したらこのテーマからの質問で上げてしまっていました。すみません。質問しようかどうかに自分の意識が向いていたのでテーマタイトルをよく見ていなかった為、テーマとズレた質問になってしまいました。申し訳ありませんでした。今後はなるべくテーマに添って質問させて頂きます。よろしくお願いします。
引き続きご質問を頂きありがとうございます。
>>カルマの法則(人類の進化)は2020年に土の時代から風の時代へと変化した事が関係あるのですか?
僕自身は「土の時代」「風の時代」といった捉え方はしていないのですが、ライトワーカーと称する方達が啓蒙活動を始めたこと自体は、人類がより本質的な知性を得るための流れの一部だとは考えております。
ただ、ライトワーカーと称する方達自身が本質的な知性という意味では欠けている面が大いにあり、そうした欠けている部分を観て学んだ方達がより本質的な知性を得ていくという双方の学びが続くことも流れの一部なのだと思います。
>>ここの質問コーナーは“この世から悪が消えていくカルマの原理”と言うテーマの質問コーナーだったんですね。
広い意味では、この世から悪が消える事とご質問のテーマは繋がっていると思うので、お気になさらないで下さい。
むしろ、カルマの法則は繋がっていない部分の方が少ないですので、ご自由にご質問を頂ければ幸いです。
結果的に、コメントをご覧になる方達も「全体としての理解」に繋がるかもしれませんね。