カルマの法則の1側面として「人間に道理を学ばせていく」というものがあります。
道理とは出来事を取り巻く事実関係の事でして、事実関係にあっていない思い込みであればそれは盲信であり、事実関係にあった考えであれば、それは真実に適った考えと言えるでしょう。
そして、カルマの法則は人間の盲信を除去するための出来事を人生上で引き起こしていきます。
今回の記事ではこの盲信を除去していく原理についてお伝えいたします。
人生では、盲信に対して物事の因果関係全体を理解するための出来事が起こる
学校のテストでは正解すれば点数がもらえますが、人生においては因果関係全体(正解に行きつくまでの道理)までを理解してこそ正解になります。
それゆえに、自身の考えが正解だったとしても、因果関係において間違った理解をしていれば、それを理解するための出来事が引き起こされるのが人生です。
それで、非常によくある例が「神は絶対にいて、私を守ってくれる」という盲信です。
このように考える人ほど、より多くの苦労を経験する傾向があります。
おそらく、盲信的な人ほどその傾向があるのを観た人も多いのではないでしょうか。
なぜ、神様が守ってくれる事に対する盲信が苦労を引き起こすのでしょう?
答えが合っていても、その答えが現実への対処を学べなくさせてしまう
「神様は絶対にいて、私を守ってくれている」その考え自体は正解なのだと思います。
というのも、カルマの法則が存在し、実際に人間はあらゆる面で保護はされているのが事実でしょう。
しかし、その答えにいたるに相応しい理解は伴っているかどうかは別でもあります。
例えば、人のために身を尽くしてみた結果、なぜか、自身が助けられ、この世に何らかの法則がある事を知り、その法則がある事を自身で確認した結果、神様はいると考えるのは因果関係として理に適っています。
ただ、そうした根拠も無いのに「神様は絶対にいて、私を守ってくれている」と思い込み続けるのは盲信であり、逆に、その盲信が因果関係を理解するのを妨げてしまっています。
そうした思い込みのせいで、目の前の困難に対処することで学べるはずのものが学べない場合、ひとまず「神様は絶対にいて、私を守ってくれている」という盲信を崩すための困難が必要になりがちです。
これが神様を盲信する人が苦労をしやすい根本の理由だと思います。
他にも、真実から外れたあらゆる誤解を人生は正してくれます。
そうしたカルマの法則による作用がある以上、僕達はどのようにしていくのが良いのか?
思い込みをちゃんと思い込みと認識し、事実をベースに考える
自身の考えを疑うということが大切になるでしょう。
特に、論理や物証などの客観的な根拠が伴わない自身の考えは思い込みとして認識し、「本当の所は分からない」としておくのが人生上、賢い理解に繋がりやすいと思います。
というのも、いざ、人生上で盲信を正されるための出来事が起こった時に問題になるのは、思い込みにしがみつこうとする自分自身です。
そのため、思い込みを思い込みとして認識することは、いざ、盲信を正されるための出来事が起こった時にすぐに思いこみを手放すことができ、正しい因果関係を理解することにつながります。
具体例を用いると、「ギャンブルをする人はロクでもない」という盲信があったとします。
その人自体をロクでもないと断定するということは、ギャンブルする人の性質の全てに対してロクでもないという根拠をあげる必要があるのですが、まずそれは不可能だと思います。
そのため、「ギャンブルをする人はロクでもない」と考えた時点で、それはいくらか真実から外れた思い込み(盲信)ということになるでしょう。
そして、この盲信を外すために、その人自身がギャンブルまがいの行為をしてしまうよう人生では導かれます。
例えば、仕事上で準備を怠りイチかバチかの賭けに出て失敗をしたり、投資などでイチかバチかの賭けに出て失敗をしたりなど、ギャンブルと本質的に同様な行為をする結果になります。
ギャンブルをする人はロクでもないというのを、ただの思い込みだと分かっている場合では、その失敗は小さくてすむし、今後はそのような失敗は少なくなるでしょう。
ただ、盲信を続ける場合は、嫌いな対象であったギャンブルをする人と同様の行為を繰り返し、その失敗は大きくなっていくでしょう。
そのため、根拠のない考えを真実だと思いこまない態度が日頃から大切なのだと思います。
とても難しい事だとは思いますが、カルマの法則の原理を理解していけば、それは減点方式ではなく、やればやるほどに精神成長に加点されるような形なので、気軽な気持ちで長期的に取り組むことが良いかもしれません。
以下の記事では、今回の記事と関連したカルマ解消は真実を観ることで行われるというテーマでお伝えしています。