人間は精神成長を遂げるほどに公平な視点を持つようになっていきます。
すると、あらゆる概念やあらゆる価値観の人達に対して、公平な判断ができるようになっていきます。
それで、まずは、公平と平等の違いについてお伝えさせて頂きます。
例えば、全ての国民が労働量や貢献量に関わらず、一律10万円で暮らすのは平等だと思います。
しかし、公平ではありません。
その一方、全ての国民が労働量や貢献量に応じて収入を得て暮らすのは公平だと思います。
しかし、平等ではありません。
(ただ、生まれながらの能力の問題や、働けない立場の人達もいるため、真の意味では公平ではありません)
このように公平とは個々の事情などを考慮した上での対応であり、平等は個々の事情を考慮しない上での対応という違いがあるでしょう。
そして、カルマの法則は全てにおいて公平であり、また、公平な視点を持つ人であるほどにカルマの法則による助力が得られやすいことについてお伝えいたします。
カルマの法則は公平性を保つように動く
人々の人生は前世に形成された自我(カルマ)を解消するためにも組まれており、それゆえ、今世だけではカルマの法則の公平性が見えにくいのは確かだと思います。
しかし、今世においてもその働きを観ることができますので、お伝えいたします。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」という言葉は公平性の大切さを示す一つの言葉なのですが、ネットリンチのような形で、自身がされて嫌なことであるにも関わらず、相手にしてしまうことがあります。
自身が逆の立場になった時に「なぜ、迷惑をかけた相手でもない多数の人から責められるのか?」と感じるのは明らかなのに、いざ叩く時にはそれをしてしまいます。
また、上記ほど極端な例でなくても、テレビを見ている場合でも、自身は陰口を言われるのが嫌いなのに、自身はテレビの有名人を観ながら陰口を叩いてしまいます。
こうした行為は、自身の中に不公平な自我を形成し、それらは不公平な現実を経験することで解消されていきます。
その際には、その不公平な現実をつくるために、自身が何かをしても報われないことであったり、誰かから一方的に誤解を受けたりなどの体験が長期的に生じていきます。
また、不公平な現実がつくられるにあたって、それらの悪行をする人が必要になってしまうのです。
これが、ネットリンチのような形で人を責めても根本的に悪が減らない理由でもあります。
(ただ、悪行をする人にもその悪行にいたるだけの理由があるのは確かでしょう)
なお、その逆もあり、公平性の高い行為に対しては、カルマの法則が公平性を保ってくれる作用があります。
不公平を公平にしていく働き
言わずもがな、この世は不公平に満ちています。
しかし、その中で公平であろうとする人には、カルマの法則によるサポートがあります。
例えば、自身が無料で誰かの情報を見ているのだから、自身も誰かに無償で何かをしようという人は公平性が高いです。
その行為に対して、カルマの法則はその人の現実を公平なものにしていくでしょう。
その過程では、能力がより発揮できるようになったり、より多くの事が分かるようになったり、過去辛かったことでも辛く感じない強い心が得られたりなど、様々な形がとられます。
筋力トレーニングなどによって筋肉量が増えるのも公平性の働きに似ています。
同様に、負荷に相応な分だけ、その負荷に耐えられる・また、その負荷を楽しめるほどに何かが向上していくことでバランスが取られています。
他には、公平な視点で様々な概念を捉えるようにすることも大切になるでしょう。
因果関係を辿れば、様々な概念に公平な価値がある
因果関係を辿るほどに様々な概念の価値は公平であることが分かります。
例えば、公平に観るのであれば、不安定と安定という両者の概念には同一の価値があります。
なぜなら、人は不安定な環境でしか、安定にいたるための能力や知識を得られないからです。
おそらく、今、何かしら安定を得ている人は、経済的・知識的に不安定な中で試行錯誤して、能力なり知恵なりを得ていき、最終的にはそれで安定した環境を得ているのだと思います。
そのため、不安定と安定は本来セットであり、どちらが欠けても成り立たない性質のものです。
なので、不安定だけを恐れるというのは公平性に欠ける視点であるのが事実でしょう。
すると、人生はその不安定さを何らかの形で現実に投影し、不安定さを実際に恐れなければいけない現実がつくられます。
ただ、不安定さの真の価値を見出せる人に対しては、不安定を恐れなければいけないような現実はつくられません。
他には、自分と他人という両者の概念があります。
理解しがたいかもしれませんが、これも同一の価値があります。
というのも、カルマの法則により、他者にした行為によって自我(自分)が形作られていくからです。
そのため、自分だけを特別扱いするのは不公平であり、自分だけを大切にする行為は不公平な自我をつくっていくでしょう。
すると、その不公平な自我を解消しなければいけない機会は必ず訪れることになります。
しかし、自身にするのと同様に他者を大切にする人は公平な視点があります。
すると、自身ではなく他の人に恵みがやってきた時に、自身が幸せな気持ちを感じられるようになっていきます。
そうなればなるほど、その精神世界は現実に投影され、自身にも恵みがあります。
(ただ、公平性の高い視点は財産の大小に囚われず、本質的な恵みとは何かを見出すようになっています)
次に、公平な視点を得るためにどうしたら良いかについてです。
公平な視点を得るために
公平な視点は公平性の高い行為によりつくられていきます。
そのため、上記にあったように
- 人に対する陰口を言わない
- 自身が無償で何かを受け取ったなら自身も他者に無償で何かをしようと試みる
- 自身と同等レベルに他者を大切にする
などが大切になると思います。
さらには、感情(不公平な自我により生じる感覚)では無い、事実をベースにした行動なども公平性の高い行為と言えるでしょう。
ただ、人間に与えられている肉体の本能はそもそもが不公平性の高いものですので、不公性の高い思考が湧きおこった時に自身をダメな人間かのように思わなくても良いと思います。
これは筋力養成ギプスをつけているようなもので、そんな肉体的本能がありながら、少しでも公平性の高い行為が出来たのであれば、相応に精神成長を遂げることが出来ています。
以下の記事では、今回の記事に関連して「この世から悪が消えていく原理」についてお伝えしています。
大切な知識を下さりありがとうございます。
いつも応援しています。
等価交換の世界という概念が良くうかがえます。
感謝です。
こちらこそ、サイトをご覧頂き本当にありがとうございます。
とても光栄です。
高橋様の「等価交換」というお言葉を基にカルマの法則を考えると、とても頷けるポイントがあると感じました。
無料のものを得たとしても、やはり、それは何らかの形で代償を払うことになるのは事実と思います。
とはいえ、カルマの法則の場合、得たものに対し、代償の部分をかなり少なくしてくれているのもまた事実と考えています。
例えば、情報依存症のような形で情報を得つづけた結果、その代償として思考力が衰えてしまい、より満足する結果を得るためにさらに多くの情報が必要になってしまう場合があります。
しかし、いざ、その人が自身の思考で物事を考える習慣を始め、過去の《情報依存症の自我》から脱却していった場合、過去に100の負債(思考力の低下)があったとすると、実際の所、10ほどの努力でそれらを返済することが可能になっていると思います。
それどころか、それまで得た情報や情報依存症になっていた過去の経験なども活かされるため、実質、代償よりも遥かに多くのものを得ていたことが分かります。
僕自身もこのような経緯を過去に辿っていたので、カルマの法則は【払った代償より遥かに得るものを多くしてくれる法則】という認識をしています。
ぜひ、今後も何かあればコメントを頂ければ幸いです。
こちらこそ、ご縁を頂き感謝しております。