瞑想(何もしないこと)と心への問いかけはセットで行うと、より有効です。
というのも、自身が持つ自我(カルマ)というのは、自身の感情に振り回され、常に何らかの行動を起こしたがる性質があり、瞑想はそうした自我を鎮めるのに大切なことだからです。
また、自我が鎮まると、心への問いかけによる答えが得られやすくなります。
今回の記事では、心への問いかけと瞑想をセットで行うことの詳細についてお伝えいたします。
一日の中で何もしない時間を取り、心への問いかけをする
できれば、一日の中で、椅子に座って目を瞑り、何もしない時間を必ず取ることが望ましいと思います。
次に、何もしない状態のまま、自身の心への問いかけを行います。
例えば、「今日、出会う人達を幸せにするために何をするのが良いだろうか?」といった心への問いかけです。
すると、心への問いかけ内容どおりに、その日の中で答えが得られ、また実行しやすくなります。
ちなみに、仮に、心への問いかけをしない場合においても、この自身の自我(カルマ)に反する「何もしない」という選択は、自身からより良い行動を引き出してくれます。
ただ、これをやる際の意識としては、心への問いかけをしたら極力、何もしないようにすることが理想だと思います。
自然と行動してしまうまで、何もしない
心への問いかけをしたら、他は、自然と行動が生じるまで、ただ目をつぶり椅子に座って何もしない時間を多くすることが理想だと思います。
例えば「思考力を高めるために何をするのが最も良いか?」という心への問いかけをした場合、自分の中に、将棋をしたらいいんじゃないか?という考えが起こったとします。
しかし、ひとまず、この考えは実行せず、何もしない時間を取るのを優先したほうが良いでしょう。
すると、自分による行動を防げた分だけ、潜在意識による行動が生じ、もっとも良い結果へと繋がるようになっています。
この場合ですと、潜在意識では「目の前の出来事を分析することで、結果的に、思考力アップに繋げたい」と思っていたなら、それを自然とやることになります。
(自然と、悩みの元であった出来事を分析しはじめ、何らかの良い答えを見つけていくことになる)
そのため、心への問いかけをしたなら、極力、自分による行動を防ぎ、何もしないようにすることが理想だと思います。
ただ、これはあくまでも理想ですので、できなくても問題はありません。
こうした理想を目指すつもりでやる方が有効ということです。
自分と大きな自我(潜在意識)の考えは常に異なっている
心への問いかけに応じた答えをくれる大きな自我(一般的に守護霊・神・ハイヤーセルフなどと呼ばれている存在)は、多くの場合、ことごとく自身の表面的自我とは違う意図を持っているものだからです。
そのため、自身の表面的自我が意図する行動を極力防ぐほうが、大きな自我による意図どおりの行動を起こしやすくなります。
ですので、心への問いかけをしたら、日々、自身の意図するあらゆる行動をしないように努める方が望ましいということになるでしょう。
こうした理由がありますので、心への問いかけと瞑想(何もしないこと)はセットで行う方が有効と考えています。
以下の記事では、この記事に関連して「心への問いかけ」という方法の詳細についてお伝えしています。
はじめまして。YouTubeの2chまとめからこちらを知り、三堀様のの真理を追及する姿勢をとても素晴らしく感じています。
質問なのてすが、瞑想をしてるときに雑多な念が浮かんできていつの間にか思考に呑まれています。
これは潜在意識(心の声)ではなく顕在意識(過去の自分)のものですよね?
「自分の選んだ道は正しかったのだろうか」と心に問いかけたときに、「大丈夫、このまま進もう」という思いがふと浮かんだときに、これは心の応えなのか、ただ特に意味はない思考のなのかと思います。
瞑想中でも、日常でも、潜在意識と繋がっている感覚が、わかるようなわからないような…という感じです。
瞑想を続ければ、もう少し迷いもなくなるのでしょうか。
はじめまして、三堀貴浩です。
私にはもったいないほどの素敵なお言葉を頂き、本当にありがとうございます。
また、ご質問を頂き感謝いたします。
【Q 瞑想をしてるときに雑多な念が浮かんできていつの間にか思考に呑まれています。
これは潜在意識(心の声)ではなく顕在意識(過去の自分)のものですよね? 】
おっしゃる通り、それらは顕在意識(過去の自分)のものであることが多いように思います。
過去の環境や自身の行為によりできた自我が、その思考を生じさせているのでしょう。
ただ、顕在意識による思考であっても、それらを観察することはとても有益だと考えています。
というのも、私が定義するところの瞑想の意義は、【過去の自分とは違う行為や判断を、状況に合わせて合理的に行えるようになる】という点にあるためです。
瞑想をきっかけとして、顕在意識(過去の自分)による考えを客観視する中で、置かれている状況と自分の考え方にズレがあることに気が付ければ、自然とより良い行動が生まれると思います。
私の場合は、このプロセス自体が ” 潜在意識による応え ” というように考えています。
【Q 「自分の選んだ道は正しかったのだろうか」と心に問いかけたときに、「大丈夫、このまま進もう」という思いがふと浮かんだときに、これは心の応えなのか、ただ特に意味はない思考のなのかと思います。】
実際のところ、心(潜在意識)の応えが瞑想中に考えとして生じることはあまり多くは無いように思います。
※たまにはあるため、完全に無いというものではないのですが、これを当てにすればするほど得られなくなると考えています。
はじめのご質問への回答にあるような、自身の顕在意識と状況のズレを知り、新しいより良い行動をとり続けることで自然と心からの応えに近い形になっていくように思っています。
というのも、潜在意識の目的は「現在の自我」(人間が自分のことを自分と認識している存在)を進歩へと導くことにあり、瞑想をしたことで潜在意識による応えが得られることばかりなのであれば、人間は自分の力をもたない操り人形のようになってしまうでしょう。
ただ、その一方で、僕たち人間というのは、自分(顕在意識)の考えに固執するばかりでも、うねる迷路の中をまっすぐ進み、壁に体当たりしつづけるようなことを繰り返してしまいがちかもしれません。
こうしたことを避けるために、瞑想のような自身の感情に2~3拍置くような瞬間が必要になるのだと思います。
とはいえ、瞑想自体が大切なのではなく、【 瞑想的境地 】が大切なのだと私は考えています。
瞑想に囚われてしまうと、それは、瞑想により答えを得ることに執着してしまう状態です。
これは瞑想的境地とは言い難いものになってしまうかもしれません。
瞑想を行う人たちが、瞑想に執着しすぎて他のものをおざなりにしてしまうケースは枚挙にいとまがないのが事実だと思います。
私自身の考えとしては、自身の感情が煽られているときほど瞑想の有効性は高いものと考えています。
ただ、感情が煽られている状況で瞑想を行えるような状態を保つためには、普段から習慣として、一日のさまざまな行動の合間に小さい瞑想を挟むなどのことを習慣化しておく必要があるように思っています。
現状では、私も、一日に平均で8~12回ほど瞑想を行動の合間に挟むようにしています。
このようにすることで、自身の行為が何らかの不安や欲望、他者への感情的なリアクションによるものかを極力、瞑想でふるいにかけつつ、それでも行動として生じるものを採用するように心がけています。
とはいえ、私自身、瞑想に取り組みはじめたのはカルマの法則の実践から8年ほど過ぎてからでして、それまでには瞑想のことなど頭の片隅にもなく、思考力の強化や他者への貢献に主眼をおいていました。
その中でエゴが削れた部分もあり、それらの最終的な結果として、瞑想を自然と行うようになった経緯があります。
そのため、私自身、瞑想のこうしたテクニック的な部分がどれほどの人に適用できるかは不明なままとなっています。
正直、以前の自分がこうした方法を知っていたなら….と切に思うのですが、実際の所、当時の自分がこれを知っていたとして、実践できていたかどうかと考えると見込みは薄いです。
というのも、瞑想により応えが得られていたとしたら、当時の私のような欲に飲まれていた人間としては、到底、受け入れられないような応えばかりであったのは間違いありません。
これらの点を考えると、瞑想を習慣化して何らかの良い効果が得られる人は続ければ良いし、自身の中に捨てられない価値観や望みのようなものがあり、衝動的な行動を抑えられないのであれば、瞑想に固執することなく、それを追い求める中で道理を学ぶのが良いと考えています。
申し訳ありません。内容が一部表示されなかったため、もう一度送信いたします。
(ちなみに内で括ったものが消えてました。)
=== 以下 ===
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
三堀様の「瞑想をして潜在意識が主となったときに、そのときにベストな行動が取れる」というお話をとても羨ましく思っていたました。私は何かいつも思考がもつれて迷いの中にいる感じなので。
けれど、
【瞑想をしたことで潜在意識による応えが得られることばかりなのであれば、人間は自分の力をもたない操り人形のようになってしまうでしょう】
こう言われてはっとしました。私は自分で決めることをやめて、潜在意識に何かを決めて欲しい、そして考えることをやめて楽になりたかった、のだと気がつきました。
おっしゃるように、それでは操り人形だし潜在意識に依存してることになりますよね。潜在意識に応えを求めるのではなく、顕在意識と距離を置くことで見えてくるものを見ようと思います。
【衝動的な行動を抑えられないのであれば、瞑想に固執することなく、それを追い求める中で道理を学ぶのが良いと考えています】
道理では押さえきれないものもありますので、このことについても考えていきたいです。
このテーマでもうひとつ疑問に思っていたことがあります。お時間があるのきにでもお考えをお聞きしたいです。カルマの法則において感情(過去の自分)とはどういう位置付けですか。
感情によって人の人生は形作られ、ときに泣き笑い悲しみ、数々の音楽芸術が生まれ、彩られていきますよね。
それらは“乗り越えるべきハードル”のようなものなのでしょうか。
“顕在意識”は真実でないと思う反面、“障害”とも言い切れない気がして…。
よろしくお願いします。
こちらこそ、素晴らしいご質問を頂き本当にありがとうございます。
引き続き、喜んでお答えさせて頂きます。
【Q カルマの法則において感情(過去の自分)とはどういう位置付けですか。】
はじめにお伝えしたいのは、瞑想なり精神成長なりを行って感情を超えていったことで『無感情』になるわけではないということです。
※ただ、瞑想のみに固執して行った場合にどうなるかは分からない所なのですが。
例えば、人間の心が成長するにしたがって、以前には怒っていたことで怒らなくなったり、小さな子供を見たとき、より可愛く感じるようになることがあると思います。
これと同じように、人間が感情を超えるほどに、以前とは違う形で感情が現れていくでしょう。
例えば、昔は逆境がやってくると「何でこんなことが起こるんだ…」と絶望するだけだったのが、逆境がやってきた際に「面白くなってきた」と楽しい気持ちが湧くようになったり、違う感情が湧き起こるようになっていきます。
また、その感情により、良い結果を掴むことも多くなっていくと思います。
それで、カルマの法則上の感情の位置づけは【未来の結果とその人物(自分)をつなぐもの】だと思います。
結果の良し悪しに関わらず、多くの場合、その人は感情により動かされ、培ってきた自我相応の結果へといたります。
例えば、
・人を不当に悪く言いつづけたことにより、人のアラが見えやすくなり、負の感情がより強く態度に現れ、相手とのトラブルにいたる
・普段から町内の掃除をすることにより、人のために何かをすることに喜びの感情が湧くようになっていて、近所の人に対しても何かをしてあげたいと思って関わった結果、相手から好かれたり、直接的にお礼をもらったりする
など、感情は、その人と未来の結果をつなぐものだと考えています。
実際は、上記は話をシンプルにしておりますので、すべてがこの通りにいくわけではないのですが、基本的には”未来の結果とその人物(自分)をつなぐもの”ということは動かぬ事実だと思っています。
ちなみに、不快な感情だから目に見える損失ばかりを生むかというと、そうではないことも多いでしょう。
ご質問者様がおっしゃるような、辛い感情が優れた芸術作品を生み出すことにも繋がると思われます。
そして、これもまた、その人に起こった相応の結果の一つでしょう。
ただ、カルマの法則における善と人間視点における善は異なっているため、優れた芸術作品を生み出すから完全にそれを良いと言えるか?(果たして、それは”良い結果”として起きたのか?)という点は、私たちには中々知りえないことかもしれません。
また、私自身の観点では、感情を超えて精神成長をすることにより湧きあがった新たな感情(例えば、高揚感)などにより生み出される特定分野への努力はとてもパワフルなものであり、そのことにより生み出される作品や成果などは辛い感情により生み出されたものを超える部分が多々あると考えています。
感情を乗り越えた、顕在意識を越えた、向こう側にも感情があるんですね。とてもポジティブで平穏そうです。
その感情が【未来の結果とその人物(自分)をつなぐ】と。
お答えを読んで、人の心を揺さぶる創作物や芸術も、作者がその感情(顕在意識)にどっぷり浸かってこちらはシラケてしまうかな? 乗り越えたところから表現されてるのかな、と思いました。
お返事ありがとうございました。