今回は「なぜ、良くない人でも富が得られることがあるのか?」という内容でお伝えいたします。
これはカルマの法則に関する議論につきもののテーマです。
多くの人が疑問に思っているところであり、また、カルマの法則に信憑性が無いと感じる原因の筆頭に挙げられることではないでしょうか。
それで、以前にも、以下のページにて、『多くの物が得られること = 善 と考える人間の尺度』と『多くの物を得ることに良し悪しが無い とするカルマの法則の尺度』の違いについて解説した事があります。
ただ、今回は、別の角度から、良くない人でも富が多く得られる理由についてお伝えしていきたいと思います。
実際の所、様々な理由があるのですが、今回扱うのは以下の2点の理由です。
- カルマの法則は、今の社会において恵まれる以上に、新しい社会において恵まれるような資質を授けていくから
- 人間は自身の意識により法則を生む存在であって、その法則がその人や周囲に強く働くから
これについて、今回は掘り下げていこうと思います。
不完全な社会における成功より、新しい社会への橋渡しの能力を授ける
まず、第一の理由である、
【カルマの法則は、今の社会において恵まれる以上に、新しい社会において恵まれるような資質を授けていくから】
についてお伝えしていきます。
今の世の中は「競争をベースとした資本主義」だと思います。
これは誰もが知るところかもしれません。
それで、この ” 競争 ” というものは人類間において、とてつもなく効率が良くないものでもあります。
そのため、まだこの社会は発展途上であり、不完全ということでもあるでしょう。
それがゆえに、不完全である競争的資本主義における成功者がカルマの法則上の成功者とは限らない、ということです。
競争的資本主義の不完全さの具体的な例を挙げると、一人の人間にパソコンを買わせるために50社以上の企業がパソコンを作ります。
しかし、一人の人間がパソコンを買うのはおおよそ1つ程度ですので、残りの多くが無駄になってしまうのです。
このことにより世界の資源も消耗したり、環境にとってマイナスの影響をもたらすでしょう。
他にも、アイデアはより多くの人でシェアして、より多くの人により改善された方が、さらに良いモノが作られるでしょう。
本来、それが合理的なのですが、競争原理により、多くの場合、アイデアはシェアされていません。(現状では仕方がないことですが)
これはお金やその他リソースだけではなく、知恵や情報という意味でも、人類間において分断が起きていて、そのロスの分だけ効率が落ちているということです。
このように、競争というのは人類間において恐ろしく生産性と効率を落とすものです。
それで、競争的資本主義における成功者になるということは、今の社会を維持するか、それをより強める立場になるということでもあります。
ちなみに、厳密にみていけば、事はそう単純でもなく、今の世で成功者とみなされる全ての人がカルマ上の成功者では無いと誤解されないようにしてください。
世界に対する善行をベースに成功者と言われるような存在になった人もいるでしょうし、そのような人は、その影響力により、世界を新しい社会へと変えていく橋渡し役をしているものと思います。
また、カルマの法則的に良い行動をしていくほど、世界を新しい社会へと変えていく橋渡し役になっていきます。
では、この新しい社会とは何なのか?についてお伝えいたします。
協調によりあらゆるものがシェアされる世界
お金・知識・情報・人の縁などあらゆる物がシェアされます。
例えば、一定の人が「ここに遊園地が欲しい」となった時に、そこにそれを作るのが適切かが関係者同士で ”その遊園地はより多くの人に価値を与えられるものか?それをする事によるデメリットはどんなものか?” をベースに話し合われ、それにOKが出たら、必要な資金や材料、作りたいという人達がすぐに集まります。
(ただ、この段階であれば、すでにお金という概念がこの世界に必要ないかもしれませんが)
この世界の中の人達はカルマの法則を意識的・無意識にでも知っているので、人のために苦労をしてでも、それをしたいという人達が集まるのです。
また、そのような働く人達のためにも何かをしたいという人達ばかりなので、働く環境もまた素晴らしいものになるでしょう。
あらゆる分野がこのような調子なので、多くの人が良いと思ったアイデアや、また、少数の人のためを思ったアイデアまでもが詳細にわたって具現化されていきます。
そのスピードは競争的資本主義などよりも、遥かに速いし、より合理的な形に仕上がります。
また、これは全体としての利益のために個を犠牲にするのではなく、個を活かす方向へも向っていきます。
そのため、個人の自由意志も可能な限り尊重され、各自の個性などによる多様性も反映された美しい社会です。
学校なども一律教育ではなく、可能な限り、その子に適した教師や生徒たちとの関係の中で学ぶことになるでしょう。
それで、カルマの法則には、競争的資本主義による社会よりも、これらの、「あらゆる物がシェアされる社会」の方が望ましいという意図があります。
そのため、真の意味での善行ができるほど、このような社会への橋渡し役になり得る能力をその人に授けていきます。
また、その事は、その人自身を長期的に幸せにしていくようにもなっています。
なぜ、新しい社会への橋渡し役は長期的に幸せなのか?
僕の説である「死後の世界」を信じる人にお伝えできる事としては、まず、死後の世界における長期的な幸せがあります。
新しい社会への橋渡し役になっている人物が死後において向かう先は、その人の精神の度合いに合わせたものですが、全てがシェアされる地域(別世界の)です。そこは物がシェアされるだけではなく、自身の肉体的制限などを超えた、表現も難しい魔法のような世界です。
これについては、以下のページでもお伝えしております。
それで、次に、この世における長期的な幸せについてはお伝えしていきます。
人間の不安や恐れの根源である《所有意識》というものが、新しい社会への橋渡し役になればなるほど、無くなっていきます。そのため、この世の外的な変動(お金の増減、人からの評価)に対して一喜一憂しなくなっていくでしょう。
さらには、他者へシェアすることへの喜び、また、潜在意識からの知恵などがより多く得られ、また人に対してシェアできる知恵や情報、場合によってはお金などもあることに最高の幸福を感じるでしょう。
ただ、そこに至るまでは、過去に蓄積してきた自我(カルマ)解消が伴うため、すぐにそうした幸福が得られるとは言えません。しかし、人類は望むかどうかに関わらず、自我解消の道のりを行っているため、それを自発的にやる方が苦しみは少ないのが事実だと思います。
この世では《所有意識》を満たせるだけの多くの物を得ることが幸せと観られる傾向がありますが、これは、極めて制限的で脆い幸せだと思います。
そのため、世界への真の善行ができればできるほど、所有意識自体が取っ払われ、この世の物的事象による恩恵以上に、潜在意識による恩恵を多く受けとることになります。
それで、次に、なぜ、良くない人が物的に恵まれることがあるのか?
第2の理由についてお伝えいたします。
人間は法則を自ら生み、その法則を経験する
第2の理由である、
【人間は自身の意識により法則を生む存在であって、その法則がその人や周囲に強く働くから】
について詳細にお伝えいたします。
まず、前提として大切なのは、人間には自由意志というものがあり、それには「自由の力」とでも呼べるようなものが宿っています。
それは一時的にでもカルマの法則に逆らえるほどの力を持っています。
それで、この社会は人間の意識により作られてきています。
それらは人間の意識が作りだした法則をベースにしています。
例えば、お金や物事の価値なども人間の意識の上で決めたものであり、多くの人が、それに沿った形で暮らしています。
実は、これらは人間が作りだした法則というのものが作用しています。
社会はそれらが具現化した形でもあるのです。
例えば、弱肉強食が当たり前という価値観の人が多くいたとして、すると、社会は《1人の強者と100人の敗者》といった構造になっていくでしょう。
より多くの人がその法則どおりに踏みつけられる結果になっていきます。
さらに言えば、この意識の力は、直接的なコミュニケーションにも作用していきます。
その弱肉強食の法則に意識が入り込んでいる人達の間では、自身の能力が高ければ相手を蔑み、自身の能力が低ければ自身を蔑む、といった気持ちが心に浮かんできやすくなります。
また、大多数の人が持つ意識の場というものがあり、それは、本来その法則と離れていた人までも巻き込んでいく作用があります。
それで、意識の場といっても無数にあるのが実際でしょう。
この世界は、それらの全てが同時に作用しています。
例えば、
- 引き寄せの法則を信じる人達による意識の場
- 性別による偏見が強い意識の場
- 自由を重んじる思想による意識の場
- 権力に対する反抗心の強い意識の場
など、書ききれないほど多いものです。
それで、これらの全てがカルマの法則の働きを変化させます。
また、カルマの法則による物理的な作用を妨げるほどの作用があります。
(厳密に言えば、カルマの法則が、人間の意志により作りだされた法則を許容している、というのが正しいです)
弱肉強食を信じる人達の間では、カルマの法則による「道理に見合った形へと状態を戻していく」といった作用が働きづらくなるのです。
そのため、その意識の場においては、強者が弱者に対して不公平を強いることが可能になっています。
ただ、その場合においても、カルマの法則は、その強者の人格へと行為の影響を蓄積していっています。
強者はその行為により、一層、《傲慢さ》《自身の価値観への固執》《攻撃性》などを強め、未来にはそれらを解消するための困難が始まっていくでしょう。
ちなみに、カルマの法則が人間の意志による法則を許容しているのは、そうした中で、その法則が道理に適っているかどうかを学ばせる意味があります。
そのため、弱肉強食の法則の中で踏みつけられた人達が、「人間は能力などで価値は計られるべきではない!」という思いがしっかり根付くほどに、その苦しみの流れからカルマの法則により、助けられることになると思います。
ですので、実際の所、人間の意志による法則が強いところではカルマの法則が物理的作用を持っていない、という言い方は事実では無いのでしょう。
今回は
- カルマの法則は、今の社会において恵まれる以上に、新しい社会において恵まれるような資質を授けていくから
- 人間は自身の意識により法則を生む存在であって、その法則がその人や周囲に強く働くから
の2点の理由から、良くない人であっても富が得られる理由についてお伝えいたしました。
また、人間は100年単位でこの世の出来事の良し悪しを判断しますが、カルマの法則は死後の世界まで含め、1万年以上先まで観て判断しているということもあります。
この世だけ見れば、この世で自由に楽をして暮らせれば良い気がするかもしれませんが、実際の所、1万年先まで観た時に、それは発展性があまりにも無さすぎるばかりか、問題ばかりが大きくなることが分かります。
そのため、この世で苦労ばかりであった人の方が、より長期的に価値のあるものを得ていた、ということもあるのです。
(とはいえ、長期的に価値のあるものを得るほどに、この世での苦労も解決されていく場合が多いですが)