人を助ける際に「見返りを求める気持ちがあってはいけない」と考える人は多いです。
しかし、実際の所、見返りを求める気持ちがあること自体は悪くはありません。
というのも、精神成長に繋がるような善行であるほど見返りを求める気持ちが生じやすいものだからです。
今回の記事では、善行に対し見返りを求める気持ちがあっても良い理由についてお伝えいたします。
なぜ、見返りを求める気持ちがあっても良いのか?
人間は誰かを助ける際に、自身の所有物を損失した場合(損失する危険性がある場合)、誰かから見返りが欲しいと思います。
そのため、見返りを求める気持ちが生じるということは、自分にとって時間やお金など、その他、心理面などにおいて何かしらの損失があったか、損失があると感じているということです。
次に、考慮したほうが良いこととして、カルマの法則とは、人のために自身の何かを損失した場合、その損失以上に価値のあるもので穴埋めしてくれるという点が挙げられます。
人のために自身の何かを損失するというのは、善行においてある種、理想的な形となっています。
むしろ、善行のために自身の何かを損失することが無ければ、自身が得るものはあまり無いと言えるでしょう。
それゆえに、見返りを求める気持ちが生じたということは、何かしら自身(今の自我)にとって、損失がある・あったということですので、それは精神成長に繋がるような善行であることの良い目安になっています。
ちなみに、人間の解消対象である自我(カルマ)というのは、自身が許容できない損失を人のため引き受けることにより、消えていく性質があります。
なぜ、自身が許容できない損失を引き受けることで、自我(カルマ)が解消されるのか?
人間の自我(カルマ)は保身を優先したことにより生じているからです。
例えば、上司に対して、自分が出世するために誰かのことを悪く言ったとします。
すると、その行為によって、《自分の見栄のために他を犠牲にする》《自分の行為が明らかに誤っているのに正当化する》といった自我が生じます。
では、この自我は何によって解消されるのでしょうか?
上記の反対である
- 『他者のために自分の見栄を捨てる』(誰かに尽くしたことを原因に自身の見栄が張れない)
- 『他者のために自身の価値観を曲げる』(誰かのために価値観を曲げたことで自身のやりたい事がやれない)
といった行為によって、過去に出来たその自我(カルマ)が解消されていきます。
これらの要素がある善行であるほどに、それは、その自我の解消に有効ということになります。
人間の精神は、前世により生じた無数の自我からなる多層構造になっており、それらが潜在的自我として層を成しています。今世においては、それらまで含めて解消対象となっています。
それで、見返りの気持ちのある善行に話を戻すと、見返りの気持ちそのもの自体は悪くなくても、それを実際に求めてしまうことで悪い結果になるのではないかと思われると思います。
おそらく、これは実際にその通りであり、見返りの求め方によって悪い結果になるでしょう。
見返りを求めて悪い結果にいたるケース
見返りを求めて悪い結果になるかどうかは、「相手と見返りの件について合意しているかどうか」が分かれ目になると思います。
相手と見返りの件について合意していれば、低い次元の道理には適っており、カルマの法則上も大きな問題はありません。
(ただ、あえて見返りを求めないようにすることは、さらに高い次元の道理に適っており、得るものは大きくなると考えています)
しかし、見返りの件について合意していないのに、相手からの見返りを要求する場合は問題が大きくなります。
例えば、恋人が自身の日頃の労をねぎらって、何かをプレゼントしてくれた時に、それが自分が欲しくないものだったとします。
ソファーが欲しかったとして、「なんでソファーじゃないの!?」と言って怒るのは、道理(事実関係)にあいません。
相手とその件で合意していないからです。
この場合ですと、《根拠の無いことで相手を責めてしまう》《周囲の人を思い通りに動かさなきゃ気が済まない》といった性質の自我(カルマ)が自身に作られ、上記の性質に振り回されるような困難が未来に生じていくでしょう。
僕自身は、大体の場合において、見返りは求めないように努めた方が良い結果になると考えているのですが、見返りを求める場合では、相手と事前に合意しておくことが大切だと思います。
上記は極端な例なのですが、相手と合意していないにも関わらず、「なぜ、相手は〇〇を私に与えてくれないのだろう」と道理に合わない形で怒り、相手を責めてしまうことはあるでしょう。
これは、見返りを求めてしまうことで悪い結果にいたるケースだと思います。
なお、【善行に際して、見返りを求める思いを持ってはいけない】という感覚は多くの人が持っているのですが、この基準はあまり良いとは言えないのが事実だと思います。
相手からの見返りを求める気持ちを持つのはダメだ、という基準の矛盾
日常生活において、人間は様々な面において、見返りを期待しての行動をし続けています。
そのため、善行においてのみ《見返りを求める気持ちがあったらやらない方が良い》と考えるのであれば、それは、見返りを求める気持ちがあるかどうか?というその基準がすでに破綻していることを示します。
- 好きな異性と付き合いたい
- 自身の勉強が未来に活かされたらいいなと願うこと
- 仕事上の成功を目指すこと
- 自身の保身に根差した人間関係の立ち回り
などなど、多くの場合、日常生活上のあらゆる行動が「見返りを期待しての行動」でして、善行においてのみ、「見返りを期待する思いがあったらダメ」という基準に照らし合わせようとするのは、泥のついた手を洗わずにキレイなものに触れて、それをキレイなまま取っておきたいと言うような矛盾になるでしょう。
ですので、普段、日常生活上で、見返りを期待しての行動の多くを防げていない以上、別の基準で善行をとらえた方が良いと思います。
代わりに良い基準となりえるのは、【その行為によって自分のみが助かるか、他の多くの人が助かるか?】といった基準だと考えています。
もし、自身の行為によって自分以外の人が多く助かるのであれば、見返りを期待していたとしても、それは「自分だけの得」(悪いカルマを生む危険性)とは逆の、精神成長に繋がる行為と言えるでしょう。