劣等感を持つ人がいじめられやすい理由と傲慢さ・劣等感の関係についてです。
劣等感を持つ人ほどいじめの対象になってしまう事があります。
それには様々なケースがあるのですが、中でも多いのは、傲慢な人による劣等感を持つ人へのいじめです。
それらが起こる根本的な原因についてお伝えいたします。
傲慢と劣等感は表裏一体
まず大切なのは「傲慢」と「劣等感」とはそもそも何か?という所だと思います。
僕の考える所では、傲慢さとは「外面的なものに意識が囚われ、他者を不当に低く評価している状態」です。
そして、劣等感とは「外面的なものに意識が囚われ、自身を不当に低く評価している状態」です。
ちなみに、この場合の外面的なものとは、自身の価値とは本来は直接関係のない事柄です。
傲慢さと劣等感は外面的なものと自身を同一視するという点で共通しています。
なお、この「外面的なもの」という見方を解説するのには多くの解説を要すると思いますので、ご興味がない方は下記をスルーしてください。
というのも、社会への貢献度で自身をはかる場合、収入が低いこと自体は、他者に対する貢献度とは無関係であるのが事実でしょう。誰しも、家族など人それぞれ助けられる人がいて、助けられない人もいる点は同様で、社会への貢献度といった観点でも「自分」という存在の価値は公平です。
そのため、収入が低いといった事に囚われるのは、外面的なものに囚われていると言えるでしょう。
多くの税金を払っている・税金のお世話になっているなどの尺度に関しても、多くの税金を払う人はその人が払わなくなった所で、他の誰かが収入を上げて払うことになっています。これが競争社会の原理でして、それゆえに、税金を多く払っていること自体は自身の貢献度とは別のところになるのが実情だと思います。
(そもそも、競争社会とは別の、助け合いの社会を前提とした尺度で観ると、利益を多くあげて多くのお金を人のために使うのが善というのも成り立たないです)
ちなみに、こうした論理を抜きにして話を簡潔にする場合、自身の深くにある精神に根差していない事柄は全てが外面的といっても良いでしょう。
生まれながら運動神経の良い人が運動神経を誇って他者を見下すのであれば、それは傲慢に該当するでしょう。
なぜなら、生まれ持つ肉体の性質は外面的なものであり、来世などで運動神経の低い身体に生まれついた場合、価値を発揮しないものだからです。
こうした、「あの世まで含め長期に渡る未来にまで価値を発揮しない性質」であるほど、それは外面的であると僕は考えています。(外面的とは、絶対的価値が低い、と言い変えても良いと思います。絶対的価値について知りたい方はこちらの記事をご覧ください)
それで、収入が低いといった外面的なものに囚われ、劣等感を持つ人である場合、その劣等感と比例して、いざ収入が大きくなるほどに傲慢になってしまうでしょう。
これが劣等感と傲慢さは表裏一体と言える由縁です。
次に、劣等感を持つ人が同質の傲慢さを持つ人から虐められやすい理由についてお伝えいたします。
なぜ、劣等感を持つ人は傲慢な人からいじめられやすいのか?
人生展開の中で、劣等感を持つ人は同質の傲慢さを持つ人により痛い目に合わされる中で「なぜ、その外面的なものに囚われてはいけないのか?」を学ぶことになります。
それで解消される自我(外面的なものの見方)は、前世において自身がやった人に行為により形成されたものであり、今世においては人からされる事で解消されるという一面もあります。
収入が低いことに劣等感を持つ場合ですと、収入が高い人によって痛い目を合わされたり、ネット上で収入の高い人と比較して自分を蔑んだりします。
同時に、収入が高い人であっても人格面で優れているわけじゃないと気付く場面も多くなっています。
これらのプロセスを経て、いざ収入が高くなった場合においても、他者を蔑まない心(外面的な事に囚われない心)を少し得ることに繋がったりします。
自身が劣等感をバネに大きく収入を上げた場合でも、収入の低い人を蔑まず、手を差し伸べられるようになるでしょう。
ただ、これ以上に、劣等感による行動をそもそも防いだ場合の方が良い結末にいたるでしょう。
劣等感による行動を防ぐ方が根本的に良い理由
上記にある、「自身が劣等感をバネに大きく収入を上げた場合でも、収入の低い人を蔑まず、手を差し伸べられるようになる」ということの問題点は《他の人が自身と同じようになった方が良い》《自身は他の人よりも価値のあるものを手にした》と考える部分に傲慢さ(無知)があり、これが、劣等感を原動力にした物的成功により得た精神成長が十分ではない理由です。
そうではなく、劣等感による行動をそもそも防いだ場合、収入が低くても、他者のために時間・お金などを分け与えるような行動が生じるのですが、そちらの方が、世界全体は助け合い社会という方向へ向かいやすくなると僕は考えています。
この場合ですと、自身の個性をフルに活かした形で、世界への貢献ができる方へと導かれるでしょう。
なお、劣等感による行動を防ぐというテーマに関して、以下の記事より引き抜いてお伝えいたします。
劣等感を防ぐにあたり、表面的な対処法と根本的な対処法を解説しています。
どちらも大切だと考えています。
表面的な対処法
学歴について何かに蔑まれた時、また、自身に”学歴さえあれば…”といった思考が生じた時に、「学歴などに真の価値は無い。相手も自分もいつか悟れるといいな」といった形で思い直すようにするだけで良いです。
この思い直し(真相に適った思いを持つこと)が、真相に適った見識に、より早く到達することに繋がります。
すなわち、真の意味での覚悟に繋がっていくでしょう。根本的な対処法
学歴に精神を依存させている際に、実際に学歴が低い場合ですと、その事で強い劣等感を抱いています。
そして、その劣等感による行動をできるだけ避けるようにすると良いでしょう。
例えば、この場合ですと、劣等感により本を沢山読んだりなどの事をするのですが、それらを極力しないようにしていきます。「劣等感をバネにしてより知識などが得られるならいいのでは?」
という考えも一理あるのですが、これだけですと、知識を得た際に、学歴の代わりに、その知識の無い人を蔑む思考にシフトするだけとなっていて、本質的な意味で成長をすることが出来ていません。
そのため、劣等感による行動を極力防ぐといったことが大切です。
ただ、この過程はとても苦しく、難しいことですので、できる範囲で出来れば素晴らしいことでしょう。その際は、行動したい時ほどあえてその行動をストップし、ただ座って何もしない時間を取るなどを繰り返すのも良いです。これは本質的な意味での良い瞑想法だと思います。
できない場合は表面的な対処法をするのでも十分に良いと思います。
なお、他には、人のために身を尽くした奉仕(寄付や他の貢献活動)なども、困難を生じさせる自我(カルマ)そのものを解消する力があります。
これらも根本的な対応の内に入るでしょう。