霊格や魂レベルといった概念には良い面もありますが、悪い面も大きくあります。
一般的に、霊格とは「自身の精神性の高低を示す位(くらい)」のようなイメージで語られることが多いと思います。
また、上記の精神性とは包容力・忍耐力・善性などにより測られる傾向があります。
多くの場合、魂レベルなども上記と同じ意味合いで語られています。
それで、この霊格や魂レベルという「霊性において上下の区別をつける概念」というのは、良い面もあるのですが、かなり大きな危険性もあります。
今回の記事では、この霊格や魂レベルという概念の問題点についてお伝えさせて頂きます。
霊格や魂レベルは「決めつけ」に繋がる
霊格や魂レベルという概念は、相手や自身の事を「頭が良い」「頭が悪い」と決めつける事に似ています。
こうした、決めつけをしてしまった時点で、その決めつけの分だけ様々な面で間違いが生じてしまうのです。
例えば、相手の事をバカだと思う・あるいは、バカだと実際に言ってしまったとします。
これが《その相手そのものがバカだ》という認識であった場合、必ず、その認識は過ちになってしまうのです。
相手そのものがバカだと認識するということは、その相手の行為の全てが愚かであることを把握(立証)する責任が道理上、発生してしまいます。
しかし、そのようなことは不可能でして、さらにほぼ全ての場合で、相手は良い行為もしているのです。
そのため、それらのこと一つ一つを観ずに、相手のことを一概にバカだと思う・言うということは、その時点で、自身のその認識のほうがバカだった(その点において、判断ミスをしていた)ということが逆に証明される結果になっていると思います。
霊格や魂レベルといった概念もこれと同様です。
自身の霊格が高い(相手の霊格が低い)と思い込むことは、自身や相手の行為一つ一つを分析する必要があるところを、その「霊格が高い・低い」という概念に囚われ、おおざっぱに決めつけてしまい、かえって自身に無知が広がってしまうことにも繋がります。
これが、霊格や魂レベルといった概念に囚われることの一番大きな問題と僕が考える部分です。
それで、他にも問題点があります。
霊格(魂レベル)が高いと信じることで精神的欠点の克服ができなくなる
自身の霊格が高いと思い込むことによって、周囲の人が愚かに観えてしまいがちです。
しかし、実際は、周囲の人こそ、自身の欠点を知らせてくれたり、自身には無い美点を持つ人達だったりします。
カルマの法則ゆえに、自身の精神的欠点の克服に相応しい人たちが周囲に配置されているからです。
しかし、自身の霊格が高いと思い込むことによって、周囲の人の意見を聴くことが出来なくなってしまいます。
このようにして、自分の霊格が高いと思い込むことによって、かえって、精神的欠点の克服ができなくなるといった致命的な矛盾が引き起こされてしまうのです。
むしろ、自身の霊格が高いなどと思わず、周囲の人に美点を見出し、尊敬することで、学んでいく方が道理の上で賢いことが明らかだと思います。
霊格が高いと思い込むことで起こる矛盾から分かると通り、それは真に霊格が高い状態では無いのでしょう。
上記ゆえに、自身の霊格が高いと思い込むことによる良い面はかなり小さいと判断するのが妥当だと思います。
霊格という概念自体は人間の所有欲(個としての意識・エゴ)から生じる
お金を蓄えれば、この世での生活は安泰だと考えます。
今回の記事では、こうした所有欲をエゴと称します。
それで、まだエゴが残る内に霊的な知識を学んだとします。
例えば、その霊的な知識とは、「善行により徳を積むほどに死後の世界が安泰になる」といったものです。
すると、お金を蓄えることが徳を積むことになり替わり、徳を積むことで死後の世界は安泰だという考えに変化します。
それらの考えの反映として、霊格という概念が生じてきます。
そのため、自身に所有欲(エゴ)がある内は、どうしても、霊格という概念が生じてしまうようになっています。
実は、この「徳を積むほど自分の格が上がっていく」という所有意識に根差した概念自体は、人間の肉体本能から生じる思考ですので、どこまでいっても湧いてしまうものだと思います。
ですので、こうした考えが湧いてしまうこと自体は恥じる必要などはないと思います。
おそらく、善行をすることに集中していれば誰でも湧いてくる考えであるのが実情でしょう。
ただ、その考えが湧いた時に、「霊格といった概念は幻みたいなものだ」「だから、囚われてはいけない」と自分を律することができるかどうかが未来の分かれ目になると思います。
というのも、この世においては、自身の霊格が高いといった概念に囚われて道を踏み外す人のほうが遥かに多いためです。
そのため、いかに霊格という概念に囚われないようにするかというのは、とても重要なテーマだと考えています。
ちなみに、なぜ、霊格といった概念を幻と考えているのか?についてです。
世界としての自分(真我)には霊格という概念は当てはまらない
ここからは誰でも把握しやすい道理以上に、僕の個人的な考えが多くを占めています。
それで、霊格や魂レベルというのは、あくまでも、個に根差した概念です。
他よりも上であるといった感覚自体は、その人がまだ個としての自分に執着していることを示します。
自身は世界そのものという境地に立っていたなら、個としての自分が他者よりも上だという事で悦にひたることなどはありません。
なぜなら、自分よりも霊格が低いと観ているその相手は、自分と同様に大事な存在なのですから。
人間は本質的に世界そのものであり、より多くの自我(カルマ)を解消するほどに、大きな自我に到達していきます。
そのため、霊格という尺度に囚われることは、個としての自分に囚われているという事であり、まだ自我(カルマ)が解消されていない部分が多いということになるでしょう。
ただ、「霊格という概念が全く存在しない」というのも、また違うように思います。
というのも、死後の世界において実際に霊格という概念が機能していると考えているからです。
死後の世界における霊格の反映
人間がお金というものを信じたことにより、資本主義の世界観は出来てきました。
それと同様に、死後の世界においても、霊格というものを多くの人が信じているがゆえに、霊格による上下の世界は存在していると思います。
(今回の記事では、この件について扱わないようにします)
そのため、実際に、死後の世界において霊格というものは作用する可能性は高いでしょう。
ですので、「善行を積むほどに死後の世界が良くなる(霊格が上がる)」という概念自体は正しいと僕は考えています。
また、その他、霊格という概念には良い面もあるでしょう。
精神の進歩は普遍性の高いものにフォーカスしていく道のり
- この世で安泰な生活を送るためにお金を蓄える
- 死後の世界で安泰な生活を送るために徳を積む
の両者は、エゴによる行動原理としては本質的に同一です。
ただ、そこには天と地ほどの違いがあります。
フォーカスしている対象の普遍性の違いです。
お金というのは普遍性が著しく乏しいです。
お金はお金にしかならず、健康・人間関係・知恵や知性の面など、あまりにもカバー範囲が狭いです。
また、お金を追い求めた所でエゴが消える事も無く、堂々巡りです。
しかし、徳というのは普遍性が高いです。
他者のためになった事で得た徳は、自分にとって真に欲しい物(必要なもの)へと変換され、分野に関わらず様々な恵みを与えてくれます。
人間関係の知恵が足りなければ、その知恵が与えられ、健康の知恵が足りなければ、その知恵などが与えられます。
お金ではこうした事は起こりません。
また、エゴに関しても、しだいに徳というものが「他者のために自分を無くせる強さ」というものに変換されていくので、初めは徳積みにエゴが絡んでいたとしても、最終的にはエゴが無くなっていくことになるでしょう。
そのため、【霊格を高めるために善行をする】といった概念は、この世で安泰な暮らしをするためにお金を蓄える、といった概念よりも遥かに普遍性が高く、価値があります。
ですので、霊格という概念が危険をはらんでいたとしても、霊格を高めるために善行をしようと思って生きることは、危険性を上回るほどの良い面もあるのだと考えています。
人間は精神成長をするほどに普遍性が高いことにフォーカスする性質がありますが、逆に、普遍性が高いことにフォーカスした努力を続けることによって精神成長が起こるのも事実なのだと思います。
以下の記事では、今回の記事に関連して「善行に見返りを求める気持ちは悪くない」という内容でお伝えしています。