摂理はその行為をした人間の動機を重要視しています。

仮に、動機による判断が無く「結果」だけで裁かれることがあれば、
仕事柄、死刑を執行しなければいけない人達は殺人の罪になり、
仕事柄、財産の差し押さえをしなければいけない人達は強奪の罪になってしまうでしょう。

摂理にはそのような欠陥は無く、
動機まで含めてあらゆる角度から人間の行為の価値を判断されています。

また、動機とはその人の精神進化の度合いが反映されています。

例えば、

他者の仕事ぶりを褒める場合ですと、

相手の仕事上の成果だけを考えて褒めるのであれば、その褒めた人は仕事の範囲で物事を観ています。
それが、現時点における精神の視野です。

一方、精神進化を遂げた人であると、

相手の精神的欠点がどこにあるのか理解しつつ、その克服の一歩として、相手の仕事上の成果を喜び褒めてあげるでしょう。

しかし、褒める際に、仕事上の成果にフォーカスしすぎると
相手に”仕事で成功したからこそ自身には価値がある(仕事こそが自分の価値である)”と
相手に思わせてしまい、未来にはその偽の自己像から脱しなければいけなくなるため、
あくまでも欠点を克服した人格面を褒めるようにするでしょう。

このように、人間がする行為のほぼ全てには動機がつきものであり、
また、その行為をするにいたった動機にはその人自身が過去に得た精神(知性)が反映されています。

ちなみに、ここで言う「動機」とはその人の社会的立場なども含まれています。

洋服屋で接客をしている人が、
お客さんを相手に褒めてあげるのは当たり前であり、善行とまでは言えず、普通のことと言えるでしょう。

それと同様に、
死刑執行のボタンを押す仕事の人がボタンを押すのは罪とまでは言えず、普通のことと言えるでしょう。
(逆に、誰かがやる必要のある仕事だけど、心情的にはやりたくないという仕事に対しては、
摂理が相応の埋め合わせを利かせてくれています。)

上記の通り、摂理はその人の社会的立場に関しても、厳密に考慮しています。

また、人間は精神進化を遂げるほどに、
様々な行為における動機(精神の視野)が向上していきます。

自身の1つの行為が及ぼす世界全体への影響までも視野に入っていき、
動機に崇高さがこもっていきます。

その分、責任も大きくなっていきます。

例えば、

2歳児の盗みと聖者の盗みは全く比較にならないほど、聖者の盗みの方が罪は重く、課せられるペナルティは大きなモノになります。

2歳児は盗んだという自覚は無しに、物を取ってきてしまいますよね。

これは2歳児の知能がまだ制限されているために、
それが自覚の無さ(動機の純粋さ)に反映されているのです。

ですので、摂理はこれを悪い行為とはみなしませんので、そのため、精神のゆがみという本質的ペナルティは与えません。

ただ、親を通じて「人のモノを取らないように」と、注意させるにとどまります。

一方、聖者の盗みというのは、
自身が摂理などあらゆる事情を知った上で、自身の短期的な利益を優先したということなので、
その分だけ動機は悪く、悪用した知恵は大きく、人格に加えられる傲慢さや無知などの度合いも大きくなります。

まだエゴが大きい内は善行をしようと思っても、
物的結果としては空回りしてしまうのですが、
行為の動機に愛があればあるほどに、
あらゆる善行に対して摂理が埋め合わせを利かせてくれています。