誰でも、善人が悪人に虐げられるような場面を見た時に

「なぜ、神様は善人のみが繁栄する世界を創造なさらなかったのだろう?」

と考えたことがあると思います。

しかし、摂理による配慮が行き届いた結果によって、
“善人が悪人に物的に虐げられることもあるこの世界”が創造されています。

今回は、

『なぜ、人格者だけが報われる世界ではいけないのか?』

について解説させて頂きます。

例えば、

・愛のある美しい人格を持つ人間であるほど、経済的に富み、健康であり、誰からも愛される。

・人格が歪んだ人間であるほどに、経済的に困窮し、不健康であり、誰からも愛されない。

といった、幼い子供であっても摂理が明白に分かる世界があるとします。

人格を歪ませた人間から困窮し、病気になり、バタバタ倒れていきます。

そして、人格の美しい人間は経済的に豊かであり、人格を歪ませてしまった人間を助けるよう努力しています。

一見、美しい世界に見えるでしょう。

しかし、精神進化の面で致命的な問題があります。

人格を歪ませた人間に対し即座に不幸がやってきているのを見た人達は、どのような心境で他者を助けようとするのでしょうか?

”何としてでも、自分は不幸を味わいたくない”

という思いを持ちつつ、他者を助けて人格を磨こうとするでしょう。

それで築かれるのは自己愛でしかありません。

このように、

『因果応報が物的環境に即座に現れ、摂理が明白に分かる世界』
(多くの人達が完全だと思っている世界)

では、摂理が分かり易すぎて知性が身につかないばかりか、人格の劣化を招くことになります。

摂理が誰でも分かり、それに背くことを怖がる人間ばかりの世界では、
自由意志による可能性など全く期待できないでしょう。

それは地獄といっても過言ではないほど自由の無い世界です。

実際の所、

摂理は上記のような独裁者とはかけ離れた存在です。

あらゆる人間に自由を許してくれています。

それでいて、他者への善行に身を尽くした人間にしか分からないような保護や報酬を作ってくれています。

悪人に善人が虐げられていても、本質的な報酬(埋め合わせ)を与えてくれています。

それは精神の進化を遂げた人間であれば、どのようなものだか分かるようになっています。

また、その善人と悪人のカルマ上の
接点も理解することができるようにもなっています。

この世での不幸にも意味があり、
それは前世での行為と関係があります。

「摂理に対する理解を深める道のりで、
知性を無限に上昇させることができる」

「広大な愛のある人格を形成する」

といった目的で最上級の場を作るのであれば、
現在の世のような
”人格者ばかりが物的繁栄を得るわけではない社会”
の方が望ましいです。
(自分が利するわけでなくとも、
他者への善行を貫いた人間のみが
法則性を見いだすことができる社会)

誰もが想像を絶するほど
この世は精神の進化にとって最善の場として
作られています。